近年、医療における科学的根拠、すなわちEBM(Evidence-Based Medicine:医学的根拠)を重視する風潮が加速している。インターネットにより質の高い医療情報を効率よく入手できるようになり、患者側も医療リテラシーが向上し、医療者側もEBMに対する意識が高揚してきている。

本記事で紹介する『医学的根拠とは何か』(津田敏秀,岩波新書,2013)は、医療における科学的根拠とはどういったものかということを、臨床疫学の専門家という著者の立場から、実例を交えながら解説している書籍である。

医学的根拠を形成した3潮流

医学的根拠には、歴史的にみて3つの潮流が存在した。直感派・メカニズム派・数量化派の3つである。

直感派とは、伝統的な専門家とも呼ばれるように、長年の臨床経験のなかで培った直感を、臨床へと還元していくタイプの専門家だ。

一方でメカニズム派は、生理学的・病理学的な機序・メカニズムを重んじる。著者はメカニズム派の代表として、フランスの生理学者、クロード・ベルナールを挙げている。ベルナールは『実験医学序説』などを著した実証主義の典型のような科学者で、彼の考え方の背景にはデテルミニスムという前提がある。つまり、疾患は特定の原因と一対一で対応しており、その条件が整えば決定論的に発生・進行するという科学観だ。ベルナールは「その原因が既に与えられているような現象に対しては、統計学はもはや何らの用がない」と『実験医学序説』で語っている。

それに対して数量化派は、統計学的な方法論を用いて人間のデータの定量的分析を重視する。本書では数量化派の代表としてフランス人医師、ピエール=シャルル・ルイが挙げられている。ルイは19世紀に広く行われていた瀉血という治療を、統計学的な手法を用いて効果がないどころか逆効果であることを示した。

ルイとベルナール、両者の主張は行き違う。ルイは観察に基づく臨床的診断と病気の分類を数学的に集積して定量的数値で表現することを科学的であると考えたのに対して、ベルナールは医学研究者の営みは実験室での実験によって適切に機能し、その生物の機能に関して研究者が決定論的な完全理解を得るとき科学は出現するとした。

もちろんこの三者は、実際の臨床においては互いに排他的ではないものの、現代において疫学的手法がいまいち広まらず、医学的根拠が混乱しているのは、直感派とメカニズム派の医師に原因があると著者は嘆いている。

EBMの根拠となるのは?

「医学的根拠」と聞いたときに、われわれ医療従事者が連想するのはEBMだろう。スタンダードな医学教育を受ければ、EBMが根拠とするのは、分子・細胞レベルでのメカニズムであると思い込んでしまう。

ところが著者は、このような立場を強く批判する。EBMの概念においては、生理学的・病理学的なメカニズムはあくまで間接的な根拠に過ぎず、疫学・統計学的なデータこそ、診療を行ううえでの直接的な根拠となり得るというのだ。

つまり、医学における科学的根拠とは、病理所見でもなく、もちろんベテラン医師の直感でもなく、人間・地域社会という階層での数量的な検証であるというのだ。患者から得られた情報を数量化し一定の疫学的ルールに従って一般法則を得て、それを個々の患者の診療に活かしていくのがEBM宣言の本質である。

医学教育で患者説明が下手になる?

著者は、医学部の教育を受けると患者さんに役立つ情報を説明できなくなる、ともいう。これは、徹底された分子・細胞レベルの基礎医学の教育によるものである。

患者さんにメカニズムの話をしても仕方がない。EBM宣言においては、病理学的・メカニズムの説明に留まる医師の説明は、過去のパラダイムとされている。EBM宣言では、患者が聴きたいことについて、臨床から得られた最新のデータに基づく定量的な説明こそが重視されているのだ。

疫学なくして臨床はできない

さらに著者は、メカニズム派による病因物質・原因遺伝子の同定に対するこだわりは、場合によっては被害を拡大させかねないとする。うつぶせ寝と乳児突然死症候群など、メカニズムでは治療効果があるにも関わらず、臨床研究で逆効果だった事例も多くある。

その一方で、ジョン・スノーがコレラの原因は井戸水であることを解明したように、原因菌がわからなくとも疫学的なアプローチを行うことで感染症の拡大を食い止めることもできる。

疫学においては、疾患の発生頻度を変える要因を、その疾患の原因であるとみなす。結核は結核菌が原因菌となるが、疫学的に言えば、これは結核という疾患の原因ではなく定義である。一見、結核菌により引き起されたものが結核であるという一対一対応は成立するように思えるが、これは因果関係を明らかにしているのではなく、疾患の定義に過ぎない。

メカニズム派は、1つの原因と1つの結果を決定論的に結びつけることを暗黙のうちに想定しているが、個別の観察だけをいくら続けても因果関係は定まらない。このように原因側から病名を定義することは、病因論的病名と呼ばれる。

このようなメカニズムは、疫学があって始めて臨床へと応用できる。疫学があるからこそ個別の分析が活きてくる。疫学がなければ、単に個々の症例に過ぎないため、臨床に応用することはできない。

科学的根拠に基づいて日々の診療をこなすためには、個別の症例の記述のみならず、仮説・一般法則を常に意識することが重要であると、著者は語っている。

分子生物学から公衆衛生学へ

日本の医療現場には、問題が山積している。今日の医学を牽引しているのは、明らかに分子生物学である。しかし、現代日本の医療問題を解決する策に共通するのは、基礎医学から疫学へ、分子生物学から公衆衛生学へ、という潮流ではないだろうか。

いま、医学は、純粋な科学としての、いわゆるドイツ的な医学から、社会における科学・社会のための科学としての医学として、そのパラダイムを大きく転換しようとしているのである。

注)本記事は、2016年2月26日に別メディアで公開されていた記事を再編集・再掲したものです。